新・方法の夜 VOL.4 「新・方法から中ザワヒデキが脱退し、皆藤将が加入する」 都築潤「新・方法/ニューエイドス」説明文字起こし(前半)

去る2月18日、桜台のPOOLで開催された新・方法の夜 VOL.4 「新・方法から中ザワヒデキが脱退し、皆藤将が加入する」(http://7x7whitebell.net/new-method/nmn4_j.html)に出演した都築潤氏は、前半に「新・方法/ニューエイドス」、後半はVERVE とニューエイドスについて解説しました。
「新・方法/ニューエイドス」は、機関誌「新・方法」第3号の寄稿文です。そして「VERVE」とは都築氏が編み出した描画法であり、神宮前HBギャラリーで2001年に開催した個展のタイトルでもあります。「ニューエイドス」は2010年10月にRECTO VERSO GALLREYで開催された個展のタイトルで、そこで展示された作品群を指す言葉にもなっています。

よろしくお願いします。
新・方法のみなさんは現時点で四人(笑)という状態でよろしいのでしょうか。今紹介にもありました「新・方法」という機関誌の第三号に「新・方法/ニューエイドス」というタイトルの文章を寄稿しました。論理、生命の二つの単語を使いました。前日の朝までイラストレーションについて書いたのですが、なんとなく思いついて、締め切り当日の明け方、朦朧とした中書いたのがこの文章です。これはイラストの話ではなく、今言った論理、生命、新・方法、ニューエイドスを対比させた文章になっています。今日はその文章を振り返って説明したいと思います。

説明するといっても自分の中でもまとまっていないのですが、自分で検証しながら振り返っていくという形になるとおもいます。それではとりあえず読んでみましょう。

新・方法/ニューエイドス
都築潤イラストレーター)
誰もが問題だと分っていることを取りあげ、これが問題だと主張することに価値はない。問題が存在するはずもない場所に問題を見つけ、それを思考し続けることにのみ価値がある。思考の動力は意志であり義務であるからこそそこに価値が生じる。

問題は説明できない。なぜならそれについて自分自身に説明できないから思考しているのであって、説明ができることなら思考はしないからだ。しかし自分は思考しているということを示唆することはできる。そこには説明をするために思考しているということを示す何らかの痕跡が残る。

では論理は思考なのか。論理は思考ではなく処理である。「AはBである」をインプットすれば「AはBである」がアウトプットされる。その工程がどんなに複雑であってもそれは思考ではなく自動的な処理だ。その工程がどんなに複雑であっても単純な命題に還元される。この文章は論理とは何かを思考して書いている。

さて生命は思考なのか。生命も思考ではなく処理である。では生命と論理は同じなのだろうか。論理の処理にズレはないが、生命の処理にはズレがある。論理の処理は直線や円を描くが、生命の処理は螺旋を描く。この文章は生命と論理がどう違うのかを思考して書いている。

これらの文章は論理と生命について書いたものであり、そして新・方法とニューエイドスについての思考の痕跡でもある。

(参考) ニューエイドスについて http://7x7whitebell.net/new-method/neweidos_j.html

*「新・方法」第3号 http://7x7whitebell.net/new-method/bulletin/b003_j.html

第一段落は多分、多分というのも自分の文章なのでおかしいのですが(笑)近代主義の事ですね。思考する自由な主体を謳歌するのは素晴らしいということです。思考=主体が近代を支えてきているということです。

第二段落です。大体どういう意味かというと、説明をするために活動をしているという事です。作品はそのために作る。なんらかの問題の解決の為に作品をつくっている、あるいは目標の為に作品をつくるといったような事なんですけど、痕跡という言葉をつくっています。

痕跡=作品でも良いんですけど、痕跡は作品とは限らない、作品と痕跡とはちょっと違います。何故ちがうかというと、何か目的や目標があるから作品をつくっているというわけではないんですね、何か大きな問題が自分の前に起こってですね、その解決の為の思いが後から見ると作品に見えることもある。なのでここでは痕跡と書いたのではないかなと思います。そういう経緯とか工程、プロセス、姿勢がなんらかの形で振り返ってみると残っているというイメージです。

次の段落は、早い話論理は考えてやるのではなくて、単純な処理だと言っています。この辺から本文の内容ががらっと変わってきます。思考する主体を謳歌するような、近代主義的な出だしから始まったこの文章ですが、ここでは論理は思考では無いと言っている訳です。と言うことは論理は主体的なものではないと言っていることになりますね。この辺からこの文章の内容の雲行きが怪しくなってきます(笑)。
思考は規範というものによって、論理が起こるということです。ここで問題なのが制約、何らかの制限、縛り、条件が、論理に変化するのか、思考は論理ではないのだから、論理が急に立ち上がるのかという事が書いてあるのですが、話はここから情報理論の話に移ります。

クロード・シャノンという人が情報理論というも考え出しました。人間社会に在る意味が文章になる。その文章を機械で扱える簡単な体系に変えることでコンピュータのシステムが出来るというものなのですが、これはまさに規範とかコードというもので体系づけられると言っています。
そしてここに書いてあるのですが、新・方法はこういう事なのかなと云うことです。

思考=主体というものを、規範あるいはコードによって消し去った。そして処理が立ち上がった。この寄稿文は、それが新・方法じゃないかと思って書いた文章です。主体というのは作り手の意志や義務という事ですね。出だしで書いた通り、これは本来は価値が有るべものなんですけど、価値があるべき主体を消し去っているという風に後半反転しています。

次です。一通り論理の話は終わって、「さて生命は思考なのか。生命も思考ではなく処理である」つまり、さっきの論理と同じ様に、生命も思考と同じ様に処理であるという事です。続けると、「では生命と論理は同じなのだろうか。論理の処理にズレはないが、生命の処理にはズレがある。論理の処理は直線や円を描くが、生命の処理は螺旋を描く。この文章は生命と論理がどう違うのかを思考して書いている。」これはなかなか(困)、ノリで書いていたのでね(笑)でも良い線行っているんですよ(笑)論理の処理にはズレがない。その代わり「論理の処理は直線や円を描く」と云っています。直線というのは原因があって結果があるという事です。円というのはトートロジーの事です。「生命の処理にはズレがある」というのは、単純に帰結するようなものは確かに多いんですけど、時々ズレると。そこが論理とは違う所だということを説明しています。ですが何度も言うように、生命も処理、論理も処理だという事を言っています。で、「論理の処理にズレはないが」といっていますが、今思うと本当にそうなのかなと最近思っています。

生命の場合は思考が身体の後ろに退く、それで処理が立ち上がってくるという考え方です。論理の場合は何らかの規範が思考を妨げて処理が立ち上がってくる。生命の場合は思考が身体の後ろに退いて処理が立ち上がる。レトリカルな文章の説明なんですが、身体の後ろに思考が退くっていうのは、結構リアリティのある事なんじゃないかなと思います。なんでかっていう事を先ほど考えていたのですが、僕がコンピュータに触れる前に、コンピューターゲームをやっていた時期がありました。インベーダーゲームです。結構古いんですけど(笑)その時に、その時には明らかに何も考えないでただただ打ち続ける自分がいました。その時には自分は何も考えずに必ず15発目の円盤ですね、高得点の300点を当てるという経験がありました。つまり、まったく思考を通さずに数えているんですね、数を。そういう経験が凄く大きくあって、こういう言い方になっています。

あともう一つ割と身近な例を出すと、スポーツがそういうものじゃないかなと思います。スポーツ選手が反射神経を磨きますよね。そうすると考えるよりも先に体が動くと。つまり処理が先に動く。そういう事だと思います。
繰り返すと、生命の処理とはなんらかの身体性によって思考を押さえつける。あるいは思考が遅れると。そういう事だと思います。
という事は、どうやら生命情報を扱っているということになります。そしてこちら側がニューエイドスだとこの文章では言っています。
つまり生命情報とは何かというと、意味解釈の事です。もう少し言うと意味解釈の自由度と言った方が良いのかなと思います。ここに何らかの制限によってと書いてありますが、それは後で説明します。

論理の場合は意味解釈の自由度とはまるで逆のような規範、ルール、コードというもので定義づけられる事によって、ズレがなく進行するような感覚だけど、これは処理だと言っています。生命の場合は意味解釈ではあるし、ある程度の精度は保っているけど時々、意味の自由度というものがあり、それによってズレると。だけどこれも処理なんです。両方とも思考ではない。
これまでの事をまとめるとこういうことになります。つまり生命は思考=主体を絞り込む。出来るだけ除去するけど残るようにしておくという感覚かな。
じゃあ思考とは何か、処理とは何かという問題が残ると思いますが、思考というのは人の心的システムの事であり、処理というのは生命システム。物質的、代謝系のシステムという事です。この二つが別れているという事です。これはなんでこんな風に断言するかというと、もう何年か前ですけど、オートポイエーシスという理論がありました。チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラという人達の理論なのですが、これはドイツの社会学ニコラス・ルーマンに取り上げられる事によって凄く有名になりました。それを西垣通が基礎情報学という、オートポイエーシス理論に対応した理論を立ち上げています。この本を読んでですね、「これは使えるぞ」とね、使えるぞというのも変なんですが(笑)、自分がやっていること、新・方法がやっていること、中ザワヒデキさんがやっていることは、どうもこれと当てはまるんじゃないかなという気がして、こういう考え方になりました。

思考=人の心的システム=主体を消す事によって、実は作品、絵の構造が現れるんじゃないかなと思います。ものの構造を見るときに、主体としての人間、あるいは考える中心としての人間というものが構造論によって否定されるという時代背景がありました。ですから新・方法、ニューエイドスというのはこの主体、作り手の思考、考えを消す、或いは極限まで制限することによって顕わな構造の作品が出てきたと分析できます。

先ほど思考する心的システム、それから処理を行う生命システムの二つがあると言いました。生命システムというのは、何も解らずに外部の情報に反応して処理をしている。その生命システムというのは、内部での歴史的な記憶がありますよね。DNAだけではないと思うんですけど、そういうものの内側からの情報、刺激なのか、外側からの情報なのか、どっちかわからずに反応しているという事だと思います。
これは凄く仏教の唯識の思想に近いと思うんですけど、これを心的システムが観察している、或いは記述している。そいういう連結状態が出来上がってるっていうのがオートポイエーシス理論なんですね。つまり思考としての心的システムと処理を行う生命システムが別れているんだけど、構造的に連結して動いている。それで観察者、記述者である思考の方は、生命システムの様な、人間には全く理解されないような情報を社会情報に変換しているという理論です。
この辺はまた続きをどういうものにしようかと考えているんですけど、僕は考えるというよりは動く方が先なので、もう動いては居るんですが考えはまとまっていないのです(笑)。大体これで「新・方法/ニューエイドス」という寄稿文の話はおしまいです。

そうだ、さっきわかりやすいようにマクドナルドで表を急いでつくったところでした(笑)。そうそう。両方とも閉鎖系、生命システムも閉鎖系と言っている理論なんです。生命システムは開放系だっていうのが普通なんですが、閉鎖系と言い切っているのがどうやら面白い所です。人の心的システムと生命システムのカップリングだという事ですね。それでどちらかというと新・方法は処理の度合いが高い。だから下の方に処理の印があるところに新・方法がある。それでニュー・エイドスは意味を多く含むので、どちらかというと心的システムの方に振り分けられるのかなという分析ができるのではないかなという事です。

以上が「新・方法/ニューエイドス」の説明でした。

*語尾など若干の修正を加えています。

この文章は前半の「新・方法/ニューエイドス」の解説を文字起こししたものです。10月7日に神保町棚ガレリで行われる「平間貴大を囲む会」に当たって、何か重要な文章は無いかと資料や過去の映像を探していたところ、このust記録に当たりました。後半もいずれアップしたいと思います。
(参考) 新・方法の夜 VOL.4 「新・方法から中ザワヒデキが脱退し、皆藤将が加入する」:http://7x7whitebell.net/new-method/nmn4_j.html  都築潤homepage「jti」:http://www.jti.ne.jp/ 都築潤さんによる、コンピューターで絵を描くことについての話:http://togetter.com/li/59543
(元動画)http://www.ustream.tv/recorded/20526097

新・方法の夜 VOL.4 「新・方法から中ザワヒデキが脱退し、皆藤将が加入する」 都築潤「新・方法/ニューエイドス」説明文字起こし(後半) by Ryousuke Muroi

都築潤氏は前半に「新・方法/ニューエイドス」、後半はVERVEとニューエイドスについて解説しました。この記事はその後半部分になります。会場にスライド画面を映して、それを見ながら解説しています。
30:30〜

次にVERVEとニューエイドスという二つをつなげて話をしたいと思います。「VERVE」というのは僕が2001年に開いた個展です。これはアドビイラストレーターというコンピューターソフトで絵を描いて、それを展示した展覧会でした。そしてこれが一昨年(2010年)のニューエイドスという展覧会につながるという説明をしたいと思います。

基本的に描きたいものは何にもないというところから始まっています。「生命」とか言うと、また新たな主体が持ち上がってきてそれを謳歌して喜びながら絵を描いている、という誤解をされるのではないかなとよく思うんですね。でもそうじゃなくて「生命」という言葉はあくまで「処理」という意味で出しているんです。だから逆に思考とか主体というのは実は無い。実際に僕は描きたいものは何もないんです。これからお見せする絵は虫とか王様とか自動車が出てくるんですけど、別に描きたいとは全然思っていないので(笑)問題は描き方、描いている経緯、残ったその絵の構造で、そういうものを中心にちょっと話を進めていきたいなと思います。

まずドローイングとペインティングというのがあります。これは中ザワヒデキさんが昔から西洋美術史の二大対立として扱ってらっしゃいます。実際の美術史でもそういうふうに扱われています。それは遡れば古代ギリシャ哲学のイデア論、それと原子論と絡むと。さらにそれがルネサンス期のフィレンツェ派、それからヴェネツィア派。それが時代が進んでいくとプッサンルーベンスとか、あるいは新古典主義ロマン主義とか。そういうふうな対立項が現代にそのまま繋がっている。かたやドローイングで、かたやペインティング。VERVEの個展を開く前はこういうことは僕全然考えていなくて。展覧会が終わった後に中ザワヒデキさんにお会いしてこういうことを色々と、知恵を授かったということになるんですが。今結論から先に説明しちゃっているんですけど。

コンピューターで絵を描いているときにアドレナリンが頭から出たんです。アドレナリンなのかエンドルフィンなのか、そういうところよくわからないんですが(笑)とにかく脳内物質が出てですね。さっき説明したように、ここで思考が身体の後ろに下がっていくのがよくわかった。そういう事態が起こったんですね。で、VERVEという作品群が9枚出来上がった。

それで、ここに一気に書いちゃったんですが、VERVEを作ったことによって新たな課題が生まれたんです。それが「絵の構造」について。何か本当に絵を描いた気がしたんですね。しかもコンピューターなのに。それまでは手描きのレベルでそういう脳内物資が出るのが分かることが二回ぐらいあったんですけど、それがまさかコンピューターで絵を描いているときに出るとは思わなかった。これは直感的に何らかの絵の本質に触れたんではないかなというふうに考えた。それから絵の構造を探っていくことが発生した。

これは当時ルーペマシーンというものを作っているんですね。実際作ったのはいいんですけど、ウェブ上で作品を鑑賞するそういうマシーンだったはずが当時できなかった。残念だった。説明するとGoogleマップみたいに絵をこうやって拡大したり縮小したりして見れるようなそういうマシーンを一応作った。ウェブ上では機能しないけど作った。

もう一つはさっきの話題に出た「痕跡」。作品なのか痕跡なのか。ここから「操作のための操作」という考えが生まれたんですね。つまり絵を描くという行為が絵を描くという行為自体に目的化したということなんですけど。これはですね、作品を描くときのテーマとして、何か目標があってそこに向かうというのでは全くなくて。そうじゃなくて行為あるいは絵を描くために行なっている処理、そういうものがものすごく拡大してきて肥大してきて、それで頭の中に充満するようなイメージだったんですね。これが操作のための操作ではないかと。これがインタラクティブデザインに繋がっていくんです。さっきのインベーダーゲームとも関係しているんですけども、やっぱり操作をすることによって何かこう、操作の中毒になるというか。簡単にはやめられなくなる。そういう何か没頭するような魅力というか深みがあるんじゃないかなと。これをインタラクティブデザイン、つまりウェブ上で機能するような何か、エンターテインメントに。このときはウェブ広告の仕事をすごく取りたくてですね。取りたくてっていうのも変ですけど(笑)そういうことを考えていた。
ここにちょっと書いたんですけど、「単一直線的フロー」というものを考えだして、それをインタラクティブデザインに使うと。それでプログラムが出来る人、あと当時はFLASHが出来る人を集めて「Firelight」というグループを作ってしばらく活動しました。

このコンセプト案でもう一つ派生しているのが「描写」「デザイン基礎」です。この二つは大学で僕がやっている絵を描くための基礎プログラムなんですね。教育カリキュラムなんです。これが自然に生まれてきた。今またバージョンアップしている最中なんですけど。ここから少し発展して「DTP循環」という考え方が頭の中に出ています。

最後に書いてあるのが「ニューエイドス」。これは個展の方ではなくて、実は2005年くらいに三人展として面白い企画ができないか。つまりドローイング側の面白い企画ができないだろうかということでニューエイドスという三人展を考えていました。この話を中ザワヒデキさんとこに持って行ったら、中ザワヒデキさんが行司役を、変ですね(笑)御意見番を引き受けてくれるというのでお願いしました。その時は僕と水野健一郎くんと横山裕一くんという三人で展覧会をやろうとして。そのあと横山くんが抜けてもう一人入って三人になって、それで中ザワさんも引っ張り込んでですね、色んな所に話を持って行った。だから2006年から07年くらいまで活動したんですけど、2007年くらいから日本経済が下火になり始めて2008年のリーマン・ショックで全く何処もお金を出してくれなくなって、それでおしゃかになった企画です。それがこの三人展の方のニューエイドス。

色々とそのあと頭で考えていました。VERVEという作品は実はドローイングとペインティングの二項対立の折衷によって出来上がっているんですけど、これが何かドローイングとペインティングが合体したことによって違う裂け目が生まれていた。自分の頭の中で物質の現実世界とデータの世界にぱっくり別れ始めたんです。このデータの世界と物質的な現実世界との二つの軸でVERVEという作品群の新しい見せ方ができないかと思って、それで開催した個展がニューエイドスというものです。それが2010年です。
特にデータ世界の中にはインターネットという広大な情報の海というものがあってですね。そこからいろんなテーマが持ち上がってきたんですね。つまりVERVEという絵がデジタル100%で出来ていてこれをウェブ上で鑑賞できるということ。是非それを実現したい。それからダウンロードできると100%デジタルで出来ているので、どんな人でもパソコンを持っていればダウンロードして原画というか現物をもらえる。さらに著作権を放棄すればLinuxのような改ざんができる絵が作れるんじゃないか。全世界の人がVERVEをダウンロードして勝手に描き変えてそれでまたウェブ上にあげるという、新しい夢がこの時点では開けていたんです。あまりダウンロードされていないんですが(笑)というかあんまり宣伝してないんですけどね(笑)こういうような色んな新しい発想が出てきたわけです。
もう一つは現代美術の話になっちゃうんですけど、ロバート・スミッソンっていう人がソルトレイクシティにスパイラルの巨大な作品を作るんです。それが湖の中に溶け込んでいってどんどんなくなっていく。そういう作品なんですね。それでその作品のように、例えばインターネットは情報の海なのでVERVEという作品を浸したことによってどんどん溶けていく。それは素晴らしいんじゃないかっていうふうに考えて。そういうこともこの一部に入っている。
いずれにしても100%デジタルで作られているっていうのがすごく重要。アドビイラストレーターというソフトで作っているのに何か欲しくなるような、欲しくなるってすごく手前みそな言い方ですが(笑)ありがたみのあるような、あるいは簡単に捨てられないようなそういう絵が出来た。それで個展を見に来てくれた人がみんな驚いたと思うので、だったらネットでは欲しい人が多いんじゃないかなと、そういう発想です。

これは2001年の個展VERVEの写真です。これ一枚しかないんですけどね。真ん中に王様の絵があって、その前で誰か見ています。これは伊東淳という人で、第一回日本グラフィック展のグランプリを受賞した人がなぜが写っている。ここに王様の絵があります。王様が馬に乗っている絵なんですけど。そしてこれがメインビジュアルの虫の絵です。ただ虫です。本当に意味はなく(笑)これはただ王様。ただ王様というのもあれなんですけど。しいて言えばアレキサンダー大王が好きだったんで、それを描いたんです。そういうことです。

それで実はこのVERVEというのは、さっきもちょこっと触れたように絵の「素情報」と「画素」で出来ています。ここは説明が難しいんですけど。素情報という言い方をするとちょっと難しくなっちゃうんですが。
絵の中で意味のある部分は、形として現れます。さっき虫とか王様っていうのは王様のような形をしているから王様に見えるし、虫の形をしているから虫に見えますよね。だからこっちは意味が司っている世界なんですね。つまりそういう意味が司っている世界が片方にあり、もう片方には画素、馴染みの言葉で言うとピクセル、そういうものの色が司っている世界がある。一つの絵の中に必ず二つの世界がある。必ずという言い方はちょっと難しいんですが。
絵の素情報というのは、形の分野の必要最小限のもの。あるいは形がなくなるまで細かく切り刻んでいった場合に最終的に残る形。最終的に残る意味。それを素情報というふうに呼んでいます。僕が勝手につけたんですけど。勝手でもないか。その素情報というものと画素というものを分けています。

この虫の絵を拡大していくとですね。例えば脚のところに血管が密集してたりするんですね。それが血管という意味と画素であるピンクや肌色、画素であるという事実。その両方を請け負っている。画素が意味を持つっていう言い方をした方がいいかもしれないんですけど。そういうふうに描かれた絵だと。VERVEという一連の9枚の作品というのは、画素に意味が与えられたような、あるいは最後まで切り詰めて残った意味と画素によって構成されているという絵なんではないか。

これは王様の右上の部分の拡大なんですけれども。右上にしみがあったりします。このへんには柱の上の方からたれている感じがあったりとか。つまり絵の素情報というのは、しみとかたれとかハプニングあるいは描かれた位置、そういうものが最後に残る意味として存在するんじゃないかなっていうことがわかってきた。これは完全にドローイングの分野であるということです。
もう一つの画素は、さっき言ったピクセルなんですが、ペインティング・色の分野であると。この二つの折衷あるいは混合で、しかも両方とも必要最低限に抑えこむ、そういうふうな描き方がVERVEだったんではないかということです。

この色と形というものは、先程中ザワヒデキさんの話でも出たようにイデア論/原子論、フィレンツェ派/ヴェネツィア派、ベクター/ビットマップと繋がっていくと。それでさっきの新・方法/ニューエイドスの話で、絵の素情報=意味というふうに言いましたけど、これは思考が描いている。画素の方は処理で行なわれる。そういう性質が両方にあるということ。さっきの新・方法/ニューエイドスの文章と合わせるとこういう考え方が浮かび上がる。

実は処理というのはオートポイエーシス理論では「行為」というふうに言われているんです。それを説明すると「区別」と「指示」。ただこれしか生命はやっていない。あとは心の方がそれを解釈し、翻訳している。この二つのカップリングということですね。
思考の方はスケーラブル。物質ではないので大きさはない。物理的な空間を支配しない。処理の方は区別と指示が特徴的だと。これがさっき言った心的システムと生命システムのカップリングである。これとまさに同じ構図を描いているというふうになっている。

えっとこれは何ですかね。「素情報=形=意味」「豊富な情報+意味解釈の自由度」というふうになっていますが…。えっとこれはVERVEが何でみんなに驚かれたのかという話です。
実はVERVEという絵はデータ容量が少ない。解像度という概念がありますよね。解像度上げれば上げるほど世の中のすべての現象を取り入れることができる。しみとかたれとかにじみとか、あるいはハケの跡、マチエール、素材感など、解像度を上げることによってそれらすべてがあがるっていう解釈の仕方ですよね。そうではなくてしみのイデア、たれのイデア、にじみのイデア、マチエールのイデアそういうもの全部を形で作るということなんです。そうするとどういうことになるかというと、解像度に頼らないのでものすごくデータ容量の軽い作品ができる。さっきの王様の絵が180cm×180cmなんですが、700KBしかないということになる。これが一つの驚きです。本当は驚きではないんですが(笑)アドビイラストレーターで描いてるから驚きではないんですが、それを忘れちゃうんでしょうね、多分。それほど解像度の代わりに意味が豊富で、意味の解釈の自由度があるので人によって見え方も違ってくる。そこが容量の大きい絵に対抗できるものが出来たということになったんじゃないかと思います。この大きさです。

で、これがニューエイドスに繋がっていく。ニューエイドスの方の話はだいたいこんな感じで展覧会の様子を見ていただくと分かるんですが、初めてiPadを置いています。プリントアウトではなく、今言ったドローイングで描かれている、アドビイラストレーターのパスで描かれているというのを拡大して分かるようにiPadを設置した。それでプリントアウトと見比べる。というような催しです。こんな感じです。絵は三枚だけなんですけど。こういう展覧会をやりました。

本当は次行きたいんですけど、時間が来てしまいましたので。実はさっきちょっと触れたこの話を持ってこようかと思っていたんです。さっき表で出したVERVEのところから派生した描写・デザイン基礎というエデュケーショナルカリキュラムというか、そういうものの紹介をしようと思ったんですが、時間がなくなったのでやめにします。またの機会にこれはやりたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。

*語尾など若干の修正を加えています。
(参考) 新・方法の夜 VOL.4 「新・方法から中ザワヒデキが脱退し、皆藤将が加入する」:http://7x7whitebell.net/new-method/nmn4_j.html  都築潤homepage「jti」:http://www.jti.ne.jp/ 都築潤さんによる、コンピューターで絵を描くことについての話:http://togetter.com/li/59543
(元動画)http://www.ustream.tv/recorded/20526097