新・方法の夜 VOL.4 「新・方法から中ザワヒデキが脱退し、皆藤将が加入する」 都築潤「新・方法/ニューエイドス」説明文字起こし(前半)
去る2月18日、桜台のPOOLで開催された新・方法の夜 VOL.4 「新・方法から中ザワヒデキが脱退し、皆藤将が加入する」(http://7x7whitebell.net/new-method/nmn4_j.html)に出演した都築潤氏は、前半に「新・方法/ニューエイドス」、後半はVERVE とニューエイドスについて解説しました。
「新・方法/ニューエイドス」は、機関誌「新・方法」第3号の寄稿文です。そして「VERVE」とは都築氏が編み出した描画法であり、神宮前HBギャラリーで2001年に開催した個展のタイトルでもあります。「ニューエイドス」は2010年10月にRECTO VERSO GALLREYで開催された個展のタイトルで、そこで展示された作品群を指す言葉にもなっています。
よろしくお願いします。
新・方法のみなさんは現時点で四人(笑)という状態でよろしいのでしょうか。今紹介にもありました「新・方法」という機関誌の第三号に「新・方法/ニューエイドス」というタイトルの文章を寄稿しました。論理、生命の二つの単語を使いました。前日の朝までイラストレーションについて書いたのですが、なんとなく思いついて、締め切り当日の明け方、朦朧とした中書いたのがこの文章です。これはイラストの話ではなく、今言った論理、生命、新・方法、ニューエイドスを対比させた文章になっています。今日はその文章を振り返って説明したいと思います。説明するといっても自分の中でもまとまっていないのですが、自分で検証しながら振り返っていくという形になるとおもいます。それではとりあえず読んでみましょう。
新・方法/ニューエイドス
都築潤(イラストレーター)
誰もが問題だと分っていることを取りあげ、これが問題だと主張することに価値はない。問題が存在するはずもない場所に問題を見つけ、それを思考し続けることにのみ価値がある。思考の動力は意志であり義務であるからこそそこに価値が生じる。問題は説明できない。なぜならそれについて自分自身に説明できないから思考しているのであって、説明ができることなら思考はしないからだ。しかし自分は思考しているということを示唆することはできる。そこには説明をするために思考しているということを示す何らかの痕跡が残る。
では論理は思考なのか。論理は思考ではなく処理である。「AはBである」をインプットすれば「AはBである」がアウトプットされる。その工程がどんなに複雑であってもそれは思考ではなく自動的な処理だ。その工程がどんなに複雑であっても単純な命題に還元される。この文章は論理とは何かを思考して書いている。
さて生命は思考なのか。生命も思考ではなく処理である。では生命と論理は同じなのだろうか。論理の処理にズレはないが、生命の処理にはズレがある。論理の処理は直線や円を描くが、生命の処理は螺旋を描く。この文章は生命と論理がどう違うのかを思考して書いている。
これらの文章は論理と生命について書いたものであり、そして新・方法とニューエイドスについての思考の痕跡でもある。
(参考) ニューエイドスについて http://7x7whitebell.net/new-method/neweidos_j.html
*「新・方法」第3号 http://7x7whitebell.net/new-method/bulletin/b003_j.html
第一段落は多分、多分というのも自分の文章なのでおかしいのですが(笑)近代主義の事ですね。思考する自由な主体を謳歌するのは素晴らしいということです。思考=主体が近代を支えてきているということです。
第二段落です。大体どういう意味かというと、説明をするために活動をしているという事です。作品はそのために作る。なんらかの問題の解決の為に作品をつくっている、あるいは目標の為に作品をつくるといったような事なんですけど、痕跡という言葉をつくっています。
痕跡=作品でも良いんですけど、痕跡は作品とは限らない、作品と痕跡とはちょっと違います。何故ちがうかというと、何か目的や目標があるから作品をつくっているというわけではないんですね、何か大きな問題が自分の前に起こってですね、その解決の為の思いが後から見ると作品に見えることもある。なのでここでは痕跡と書いたのではないかなと思います。そういう経緯とか工程、プロセス、姿勢がなんらかの形で振り返ってみると残っているというイメージです。
次の段落は、早い話論理は考えてやるのではなくて、単純な処理だと言っています。この辺から本文の内容ががらっと変わってきます。思考する主体を謳歌するような、近代主義的な出だしから始まったこの文章ですが、ここでは論理は思考では無いと言っている訳です。と言うことは論理は主体的なものではないと言っていることになりますね。この辺からこの文章の内容の雲行きが怪しくなってきます(笑)。
思考は規範というものによって、論理が起こるということです。ここで問題なのが制約、何らかの制限、縛り、条件が、論理に変化するのか、思考は論理ではないのだから、論理が急に立ち上がるのかという事が書いてあるのですが、話はここから情報理論の話に移ります。クロード・シャノンという人が情報理論というも考え出しました。人間社会に在る意味が文章になる。その文章を機械で扱える簡単な体系に変えることでコンピュータのシステムが出来るというものなのですが、これはまさに規範とかコードというもので体系づけられると言っています。
そしてここに書いてあるのですが、新・方法はこういう事なのかなと云うことです。思考=主体というものを、規範あるいはコードによって消し去った。そして処理が立ち上がった。この寄稿文は、それが新・方法じゃないかと思って書いた文章です。主体というのは作り手の意志や義務という事ですね。出だしで書いた通り、これは本来は価値が有るべものなんですけど、価値があるべき主体を消し去っているという風に後半反転しています。
次です。一通り論理の話は終わって、「さて生命は思考なのか。生命も思考ではなく処理である」つまり、さっきの論理と同じ様に、生命も思考と同じ様に処理であるという事です。続けると、「では生命と論理は同じなのだろうか。論理の処理にズレはないが、生命の処理にはズレがある。論理の処理は直線や円を描くが、生命の処理は螺旋を描く。この文章は生命と論理がどう違うのかを思考して書いている。」これはなかなか(困)、ノリで書いていたのでね(笑)でも良い線行っているんですよ(笑)論理の処理にはズレがない。その代わり「論理の処理は直線や円を描く」と云っています。直線というのは原因があって結果があるという事です。円というのはトートロジーの事です。「生命の処理にはズレがある」というのは、単純に帰結するようなものは確かに多いんですけど、時々ズレると。そこが論理とは違う所だということを説明しています。ですが何度も言うように、生命も処理、論理も処理だという事を言っています。で、「論理の処理にズレはないが」といっていますが、今思うと本当にそうなのかなと最近思っています。
生命の場合は思考が身体の後ろに退く、それで処理が立ち上がってくるという考え方です。論理の場合は何らかの規範が思考を妨げて処理が立ち上がってくる。生命の場合は思考が身体の後ろに退いて処理が立ち上がる。レトリカルな文章の説明なんですが、身体の後ろに思考が退くっていうのは、結構リアリティのある事なんじゃないかなと思います。なんでかっていう事を先ほど考えていたのですが、僕がコンピュータに触れる前に、コンピューターゲームをやっていた時期がありました。インベーダーゲームです。結構古いんですけど(笑)その時に、その時には明らかに何も考えないでただただ打ち続ける自分がいました。その時には自分は何も考えずに必ず15発目の円盤ですね、高得点の300点を当てるという経験がありました。つまり、まったく思考を通さずに数えているんですね、数を。そういう経験が凄く大きくあって、こういう言い方になっています。
あともう一つ割と身近な例を出すと、スポーツがそういうものじゃないかなと思います。スポーツ選手が反射神経を磨きますよね。そうすると考えるよりも先に体が動くと。つまり処理が先に動く。そういう事だと思います。
繰り返すと、生命の処理とはなんらかの身体性によって思考を押さえつける。あるいは思考が遅れると。そういう事だと思います。
という事は、どうやら生命情報を扱っているということになります。そしてこちら側がニューエイドスだとこの文章では言っています。
つまり生命情報とは何かというと、意味解釈の事です。もう少し言うと意味解釈の自由度と言った方が良いのかなと思います。ここに何らかの制限によってと書いてありますが、それは後で説明します。論理の場合は意味解釈の自由度とはまるで逆のような規範、ルール、コードというもので定義づけられる事によって、ズレがなく進行するような感覚だけど、これは処理だと言っています。生命の場合は意味解釈ではあるし、ある程度の精度は保っているけど時々、意味の自由度というものがあり、それによってズレると。だけどこれも処理なんです。両方とも思考ではない。
これまでの事をまとめるとこういうことになります。つまり生命は思考=主体を絞り込む。出来るだけ除去するけど残るようにしておくという感覚かな。
じゃあ思考とは何か、処理とは何かという問題が残ると思いますが、思考というのは人の心的システムの事であり、処理というのは生命システム。物質的、代謝系のシステムという事です。この二つが別れているという事です。これはなんでこんな風に断言するかというと、もう何年か前ですけど、オートポイエーシスという理論がありました。チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラという人達の理論なのですが、これはドイツの社会学ニコラス・ルーマンに取り上げられる事によって凄く有名になりました。それを西垣通が基礎情報学という、オートポイエーシス理論に対応した理論を立ち上げています。この本を読んでですね、「これは使えるぞ」とね、使えるぞというのも変なんですが(笑)、自分がやっていること、新・方法がやっていること、中ザワヒデキさんがやっていることは、どうもこれと当てはまるんじゃないかなという気がして、こういう考え方になりました。思考=人の心的システム=主体を消す事によって、実は作品、絵の構造が現れるんじゃないかなと思います。ものの構造を見るときに、主体としての人間、あるいは考える中心としての人間というものが構造論によって否定されるという時代背景がありました。ですから新・方法、ニューエイドスというのはこの主体、作り手の思考、考えを消す、或いは極限まで制限することによって顕わな構造の作品が出てきたと分析できます。
先ほど思考する心的システム、それから処理を行う生命システムの二つがあると言いました。生命システムというのは、何も解らずに外部の情報に反応して処理をしている。その生命システムというのは、内部での歴史的な記憶がありますよね。DNAだけではないと思うんですけど、そういうものの内側からの情報、刺激なのか、外側からの情報なのか、どっちかわからずに反応しているという事だと思います。
これは凄く仏教の唯識の思想に近いと思うんですけど、これを心的システムが観察している、或いは記述している。そいういう連結状態が出来上がってるっていうのがオートポイエーシス理論なんですね。つまり思考としての心的システムと処理を行う生命システムが別れているんだけど、構造的に連結して動いている。それで観察者、記述者である思考の方は、生命システムの様な、人間には全く理解されないような情報を社会情報に変換しているという理論です。
この辺はまた続きをどういうものにしようかと考えているんですけど、僕は考えるというよりは動く方が先なので、もう動いては居るんですが考えはまとまっていないのです(笑)。大体これで「新・方法/ニューエイドス」という寄稿文の話はおしまいです。そうだ、さっきわかりやすいようにマクドナルドで表を急いでつくったところでした(笑)。そうそう。両方とも閉鎖系、生命システムも閉鎖系と言っている理論なんです。生命システムは開放系だっていうのが普通なんですが、閉鎖系と言い切っているのがどうやら面白い所です。人の心的システムと生命システムのカップリングだという事ですね。それでどちらかというと新・方法は処理の度合いが高い。だから下の方に処理の印があるところに新・方法がある。それでニュー・エイドスは意味を多く含むので、どちらかというと心的システムの方に振り分けられるのかなという分析ができるのではないかなという事です。
以上が「新・方法/ニューエイドス」の説明でした。
*語尾など若干の修正を加えています。
この文章は前半の「新・方法/ニューエイドス」の解説を文字起こししたものです。10月7日に神保町棚ガレリで行われる「平間貴大を囲む会」に当たって、何か重要な文章は無いかと資料や過去の映像を探していたところ、このust記録に当たりました。後半もいずれアップしたいと思います。
(参考) 新・方法の夜 VOL.4 「新・方法から中ザワヒデキが脱退し、皆藤将が加入する」:http://7x7whitebell.net/new-method/nmn4_j.html 都築潤homepage「jti」:http://www.jti.ne.jp/ 都築潤さんによる、コンピューターで絵を描くことについての話:http://togetter.com/li/59543
(元動画)http://www.ustream.tv/recorded/20526097